読了
- 作者: 近藤勝重
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1987/08
- メディア: 単行本
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お笑いには興味がないので、やす・きよも当然見たことがない。この本は副題が「大阪狂騒曲」ならばお笑いのことにとどまらず大阪それ自体のことも書いてあるのだろうと手にとってみたら、書き出しが著者の大阪観から始まっていたので読みたくなった。
著者は早稲田卒(つまり東京暮らし経験後)、この本を書いた時点で大阪に14年暮らしたとある。今のところ、私はこんなふうに「よそから行って大阪の人になった」人の書くものが一番しっくり来る。
「日本に大阪という街がなかったら、なんだか気詰まりな国になってしまいそう」ということから始まり、ニューヨークと大阪は似ているそうな。私はニューヨークに行ったことがないからわからないけれど、「好きやねん大阪」が「I LOVE NEW YORK」からきているとは驚いた。
西川きよしのトップ当選からやす・きよの復活までを書く。やすしの記述が多いが、着地点がコンビの復活であるためか、あくまで「やす・きよと言うコンビがどうなるか」を常に気にかけているため、ひとりが話しているときも常にこの人の単位はふたりであると言うことが忘れられない。読み終わってから次の本を探し始めて、やすしの名前だけを冠した本の多さに気づき、最初として良い本に当たったかもしれないと思った。
wikiの横山やすしの項の詳細さに偉大さを知るとともにとても哀しくなる。この本の中ではギリギリやすしを支えていた人たちが、抱えきれなくなって次々手を離していったのが詳らかにされているから。この本の最後は祝祭の空気に満ちている。オチを書くことはできないけれど、最後のやすしの言葉はやす・きよをみたことがない私にも、どれほどの勢いと覇気が満ちていたことだろうと想像させる。
「ふたり」を仕事の単位としている人がそのふたりについて語るとき、どうしてこう、過たずいちいちぐっとくるのだろう。どんな何気ない一言でも絶対にそう。
終盤で、著者はまた大阪のことを書く。引用する。
大阪はチラッと東京を見ていればいいように思う。東京との距離をむしろ大事にして、持ち前の自助精神を発揮することの方が、この街にはふさわしい。
国際化についての部分を引用する。
しかし、考えてみたい。「国際化」とはいったい何なのか。
結局それは、地方が地方にこだわることではないのか。
地方が中央を追うかぎり、その地方は中央の小枝でしかない。地方それぞれがその地方に特有な文化や産業にのっとり、世界を目ざしてその特性を存分に発揮すること、それこそが「国際化」への近道ではないのだろうか。
大阪の場合、地方色を推しすぎて「こてこて」で逆に画一化されたことが問題であると言う記述を最近よく目にする(ソースが少ないから)。この文章は気づかずしてその袋小路に足を踏み入れたしゅんかんの記述とも読めるが、なんばがなんばを、堀江が堀江をちゃんとして特性を発揮すれば、と考えれば、この記述はむしろ今の議論にこそ有効であると思える。とらえるユニットの大きさが、要するに肝なのではないかと思うので、やはり「大阪レジスタンス」が聴いてみたい。
日本の中に大阪があり、大阪の中にやす・きよがいる。この本にはつねに「大阪」と言うやす・きよの外側を意識させた。大阪の人々がやす・きよを取り巻いてその未来に気をもんだり笑ったりしていた。だからコンビの危機にあろうともやす・きよが大勢の人に見守られていると言うあたたかさをもったまま、最後まで読み終えた。孤高の天才の伝記を最初に読んでいたらこうはいかなかったと思う。